HiKaRu
第20号(File #20:2000.09.12発行)

◆ 〜HIKARU自身〜 Vol.1◆

やはり今夜はなかなか寝付かれない。普段なら、横になればものの数分もかからずにすぐに眠りに落ちてしまうHIKARUなのだが・・・。

HIKARUは遠くからゆっくりと忍び寄ってくるその気配を何とか追い払おうと、何度も寝返りをうったり背筋を伸ばしてみたりしていたが、ふと吹っ切れて開き直ったような気持ちになると、それ以上無駄な抵抗をするのを止めてしまった。フェザーピローの形を整えなおし、ブランケットを胸元までかけなおして、真直ぐ仰向けにベッドに身体を横たえ、深く長いため息を一つついて、それと真直ぐに向かい合う心の準備を整えた。

それからしばらく目を閉じていたが、常夜灯だけの薄暗い部屋にいるにもかかわらず強く目蓋を閉じてもとても眩しく感じて、目蓋の裏側に広がる淡い乳白色の光の中を様々な実在しない不思議な形状の物体がぐるぐると回ったり四方八方に流れ飛び回るので、目を開けてぼんやりと部屋の天井を眺めていた。すると今度は瞬きをする度に、ほんの少しずつ目に映る部屋の光景に歪みが生じ始める。目に映る天井灯やフロアースタンドやチェストなどといった部屋の備品を形づくるシャープなはずのプロポーショナルラインが次第に丸みを帯びていくように感じられ、やがて真直ぐであるはずのそれらのラインが弓のようにゆっくりと大きくしなり始める。それにつれて目に映るものとHIKARUとの距離感が次第に狂い始め、それら目に映るものすべてがずっと遠くに離れていくように感じられる反面、それらすべてがどんどんと大きなものへと膨張していくかのように見えてくる。それと同時にHIKARU自身も巨人になってしまったかのように異様に大きく自らを感じ始めるが、にもかかわらず目に映るすべてのものとHIKARU自身が存在している部屋は、人形の部屋に頭だけを突っ込んでいるかのように小さく狭い空間のように感じてしまう。

そしてだんだんと部屋の空気が淀み始める。次第に空気の密度と質量が増していき、仰向けに横たわるHIKARUの身体にゆっくりと重く覆い被さってくるような気がして、徐々に胸の鼓動が高まっていくにつれてとても息苦しく感じ始める。水面が少しずつゆっくりと注がれる油に徐々に覆われて閉じ込められてしまうかのように、そしてまるでその水の中に潜っているかのような錯覚にHIKARUは陥っていく。そしてその重い油の圧力に押しつぶされていくかのように部屋の空気の濃度がさらに増してくると、目に映る部屋の中のすべてのものの輪郭はもうほとんど溶解してしまって一つに混じり合い、その油にまた新たな油が際限なく大量に注がれてどろどろに混ざり合うかのようにぐるぐると回り始める。HIKARUはもう息苦しいのを通り越して、もう呼吸をすることすらほとんどままならなくなり、やがて自らの意識が覚醒しているのか混濁しているのかも判らなくなった。目に映っているものなのか意識の中の幻影なのかもはっきりとはしなかったが、その時のHIKARUに見えていたのは、混濁して回り続けながらゆっくりと流れる泥の河であって、そしてさらにその渦巻きの中心に小さな穴が開いて、そこから徐々に沸騰しているかのようにごぼごぼと湧きだす真っ黒な固体に近いほど濃度の高い油が、徐々に泥に混ざって拡がっていき、すべての存在をかき消して暗黒の闇に引き摺り込んでいくかのような恐ろしい光景だった。

 

ようやく最近になってこんな感覚に囚われることはほとんどなくなってきていたのだが、ずっと長い間HIKARUの心の中心にはぽっかりと大きな深い暗闇とでも言おうか空洞が常に存在していて、自分自身を深く見つめようとしたり物事を突き詰めて考えていったりすると、意識がある瞬間から突然真っ白になって何も解らなくなってしまうようなことが以前から時折あった。捉えどころのない大きな不安感あるいは恐怖感にかられて気が違ってしまいそうな死んでしまいたくなるようなやり場のない感覚にさいなまれるその心のブラックホールに陥ってしまいたくないばかりに、HIKARUは自分でも無意識のうちに自分自身を深く見つめたり物事を熟考したりすることから逃避して、自らの直感や五感に頼って生きてきたように思う。人一倍自分自身を見つけたいという欲求が強かった、というよりも愛せる自分自身を見つけなければといったような焦燥感も反面でHIKARUを支配してきたから、長い間HIKARUは幸福感に浸ったりすることはおろか心から安らいだりした記憶すらもなかった。

目にとまった膨大な書物を手当りしだいに読み漁ったり、基本的にはアパレルの業界だったが次々と様々な会社を渡り歩いたり、もうそのおおよその数すらも定かではない男性遍歴を重ねたり、相手がなければ一人ででも毎夜のごとく繁華街を彷徨い歩いたり、ドラッグに浸ったりと、ともかく一人正気で部屋にいるというような孤独と向き合うことがずっとできないで、常に何かで気を紛らわせながらHIKARU自身から長い間逃げ回ってきたような気がする。

何かどこか普段と違って今日のHIKARUには、特にこの感覚に囚われてしまうきっかけになるような要素はどこにもなかったのだが、夕方になったあたりから何だかそわそわと落ち着かず、何をやっても意識が散漫になってまったく集中できなかった。漫然とではあったが、その予感のようなものはあった。もうこのところずっとこの感覚に囚われることはなかったうえに、心の中のその深い闇の存在も薄れかけてきていたので、このまま忘れ去ってしまいたいと思う反面、次にまた囚われてしまうことがあれば、今度こそとことんその闇の奥底まで見届けてやろうという覚悟のような気持ちも持っていた。

 

さらに尖った圧迫感がHIKARUの両眼から入り込み、次第に眼球の上から裏側に抉るように回り込み、ゆっくりと染み渡っていくかのように横に拡がっていく。両側のこめかみを鷲掴みにしながら頭頂部に向かっていくにつれて、不快な酸味の唾液が頬の内側を収縮させ始めて吐き気も次第に強まってくる。さらに頭頂部から眉間に向かって太い杭を打ち込まれるような強い痛みが頭全体に拡がった後、急速にその痛みが消失していき、けだるくにぶい恍惚感にHIKARUは包まれていく。

いつもであれば、そのまま意識が白く飛んでしまうはずのところだったが、今夜はそのまま意識を失ってしまわないように気持ちを奮い立たせ目を見開いて、漆黒の深い闇の中に吸い込まれていくことにも抵抗をしないで自然な成り行きに身を任せていた。するとやがて落ちていく闇の底に淡い光が見え始め、それがだんだんと明るくなってHIKARUはまた普段の部屋のベッドに戻ってきた。

 

これまでなら、気が付くと大抵は朝になっていて、それが現実なのかまた悪い夢であったのか、あるいは金縛りとでもいったような何か特別な経験だったりしたのであろうかと、あれこれ思いを巡らしはするものの、とかく追求することは避けてうやむやのまますぐに忘れてしまうことがHIKARUの常だったが、今夜はほんの数分程度の時間が過ぎる間の出来事だった。倦怠感に全身は支配されてはいたものの、気分はとてもすっきりと晴れやかで、ずっと長い間の成し遂げられなかったことがようやく達成できたような心地良い疲労感にHIKARUは包まれていた。

 

HIKARU自身/Vol.2に続く


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