HiKaRu

第8号(File #8:1999.11.23発行)

◆ 〜カリン〜 Vol.5 ◆

入籍するまでカリンと潤くんは、それぞれ自分の部屋を持って行き来しながら生活していた。披露パーティーの夜、カリンは、新居で一緒に暮らし始めるために翌日引っ越しをするはずの潤くんのアパートに風太郎とHIKARUを連れていった。

潤くんの部屋は、改造したというよりは物置きを片付けてそのまま使っているといったような古い雑居ビルの地下室だった。引っ越しで荷物を片付けた後かと思うほどに生活感のあるものがほとんどなく、壁や天井のあちこちに取り付けられたタングステンのライトをすべて点けてもまだ薄暗い窓すらもないがらんとした部屋の中央に、美しく手入れされて黒光りする大きなグランドピアノが置かれていた。

「僕には祝ってもらうような友人はいなくて・・・。カリンがお二人には来てもらいたいと言うので・・・、わざわざ今夜はありがとう」
潤くんはぼそぼそとつぶやくように挨拶をしながら、風太郎とHIKARUに握手をした。初めのうちは四人でぎこちなかったが、ほどなくうちとけてからはひとしきりよく語りよく食べよく呑んだ。

瞬く間に時間が過ぎ去り深夜を回ってそろそろ帰ろうかと考えていたところに、突然潤くんが神妙な口調で言った。
「もしよかったら、これから僕のラストコンサートをしたいんだけど・・・、いいかな?」

潤くんが立ち上がりゆっくりとグランドピアノに近付いていく。誰もそれから始まるコンサートの意味には気付いていない。静かに低くゆっくり潤くんが紡ぎ出す悲しく苦しい唸り声のような音色は深海の底を這い、一転して突然噴火する火山のように荒々しく弾け、そして夜空の星の川を漂うかのように清らかに流れた。カリンも風太郎もHIKARUも金縛りにあったように固まってしまい、どのくらいそれは続いたのだろうか、カリンは溢れる涙を拭おうともせず、風太郎は真っ青な顔色で目を見開き、HIKARUも感動のあまり全身を鳥肌立て、三人はまばたきをするのも呼吸をするのも忘れるほどに強く引き込まれていた。

いつまでもどこまでも続いていくかのような最後の長い和音で潤くんの演奏が終わった。深い余韻に呆然自失する三人の前で、潤くんはゆっくりと立ち上がり、座っていた椅子を高々と振り上げ、鍵盤に叩き付けた。この世の音とは思えないほどの大音響とともに椅子とピアノの前面の中央部分がバラバラに壊れ、椅子や鍵盤の破片が部屋中に飛んで散乱した。驚きのあまりのけぞる三人に向かって潤くんが、その目に涙をいっばいにためて言った。
「これが僕のラストコンサートです。僕は今夜を限りに二度とピアノには触れない・・・」

 

風太郎はグループ展以来しばらくの間、カリンがあまりにすべてに無頓着に撮り散らかすすべてのモノクロ作品を現像しプリントしネガを整理し、カリンのすぐに埃やら飼い猫の毛やらで汚れる撮影機材も月に一度念入りに手入れもしていたが、そのうちにそれがいかにばからしいことであるかに気付き、カリンの創作活動から完全に自らを遠ざけた。

カリンの作品は、被写体自体は別に特別なものではなく、カリンの日常の生活の中の様々な局面を無造作に切り取ったものが多く、基本的には被写体に完全依存をしながらも、それら被写体の選択、シャッターを切るタイミングやそれらを捉える角度にカリンの強い個性と鋭い感性が現れて、どのカット一枚をとってもすぐにカリンのそれと判るほど、支離滅裂で魅力的で強いインパクトを持っていた。

グループ展のカリンの作品も、新たに撮り下ろした訳ではなく、それまでに撮りためていた膨大なネガの中から風太郎が選択してプリントしたものだったが、“ONE DAY IN MY LIFE”というタイトルはあるものの8枚のスナップショットは、それぞれのカットがそれぞれ独立しておりそれぞれのカット単独で完結していた。 下からカリンを見上げようとする少年をスローシャッターで真上から撮影したために頭部の動きの軌跡が残る中にまたブレてはいても少年の好奇心に満ちた表情がよく判りその場の様子までも感じてとれるカット、床にカメラを置いた猫の視点で部屋の隅からレンズを睨みつける別の猫を画面いっぱいの床の端に捉えた見る人に睨まれる猫のその時の感情が伝わってくるかのようなカット、マニュキュアの長い爪とロックグラスを脇に奥歯や咽の奥までもが見えている大きく笑う女性の歪んだルージュの口元のカット・・・、ガラス越しのマネキンの横顔のアップが反射する光のハレーションの中で実際の人物の恍惚の表情のように見えるカット・・・、どのカットも切り取られた被写体そのものであって、そしていつもそこにはカリンの存在が感じられた。

カリン/Vol.6に続く


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