HiKaRu

第9号(File #9:1999.12.02発行)

◆ 〜カリン〜 Vol.6 ◆

潤くんがジャズピアニストへの道を断念したのは、怪我がもとで左手の小指が思うように動かなくなったからとのことだった。

あの夜の演奏は、これまで耳にしたどんなピアニストのどんな演奏にもまして完璧で比類のない大きな感動をHIKARUに与えたが、それでも指の故障は潤くん自身にとっては許容し難い致命的要因であり、事実あの夜以来潤くんは一度もピアノに触れることはなく、本当にラストコンサートになってしまった。

それからの潤くんは大学を休学し、一人で発刊していたミニコミ誌の編集に没頭した。紙面を充実させ、広告をとり、価格を設定し、書店やレコード店や飲食店などを回ってあちこちに置いてもらっていた。そのうちに評判が評判を呼び、全国からまとまった注文が入るようになり、出版社を設立して何人かの人材を雇い入れた。そしてその雑誌は、やがて大手の書籍販売会社を通して全国の書店にならぶメジャー音楽雑誌に成長していった。

にもかかわらず潤くんは、卒業を機に出版社ごと雑誌を売却し、ある大手の証券会社に入社した。以来入社の年から10年間連続全国トップの営業成績をあげて営業企画部長となり、その後ほどなく会社創業以来最年少の常務取締役に抜擢されたが、昨年会社の大幅な業務縮小とリストラの役目を終えて辞職してしまった。

カリンは、潤くんに十分なだけの収入があったから、結婚した頃からしばらくの間は仕事はせず、家事と長女さやかの育児に専念していた。大学に登校する日はさやかを母親に預けていたが、潤くんが出版社を売却して得たまとまった収入で私鉄沿線にマンションを購入し、それまで独り暮らしをしていた母親も同居させての新しい生活を始めた。

やがてカリンは、次女のはるかが産まれた後、徐々にフリーランスフォトグラファーとしての活動を始めた。家計は潤くんの収入で支えられ、日々の撮影の際や中長期のロケーションの際も母親が娘二人の面倒を見てくれる環境にも恵まれて、ミュージシャン達のコンサートはもちろん写真集やレコードジャケットなどに使用する彼等の日常の写真撮影、小説や評論の単行本に独特なタッチの写真を提供したり撮り下ろしたり、何年にもわたる同じテーマでの取材撮影など、淡々と自分のペースで自分の嗜好に沿った写真制作を続けていた。

カリンの場合は、依頼があって制作を開始するのではなく、自らのその時々のテーマやコンセプトに基づく何らの制約も受けずにまず制作ありき、それらがある時は一部が、ある時はその制作全体が完成後に売れていくというクリエーターとしては理想的なスタイルだったから、コマーシャルフォトグラファーというよりは写真作家としての評価を次第に確立していった。

そのうちに長男の狩夢(かりむ)が産まれるが、その頃から母親が病気がちになり、カリンは仕事の一切を休止して家事と育児と母親の看病に専念することになった。

それからのカリンは、彼女のマネージメントをするようになった画商のコーディネートで作品展を開いてはオリジナルプリントを販売したりする程度で、もはや業界の前線からは姿を消しているが、日々プライベートな制作にひたすら没頭している。

 

「天才の圧倒的な存在を知って、天才をサポートするベストマネージャーがいて、遅かれ早かれいずれ当たり前の各方面のトップカメラマンには連中がなるよ。僕のいるべき場所はここじゃあないと思うんだ。みんなが延々と続く敷かれた線路の上を電車でいくなら、僕は別の普通の道をチャリンコででも歩いてでもいくよ」
風太郎はそう言い残して大学を中途退学してしまい、ほとんどアパートにも戻らなくなった。以来前触れもなく突然HIKARUの前に現れては気が付けばまた消えているという彼の放浪の生活が始まり、そしてそれは今もなお続いている。

潤くん/Vol.1に続く


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